河澄家
南北朝時代の応安二年(1369年)に入滅した日下連(くさかむらじ)河澄与市大戸清正に遡り、江戸時代には代々作兵衛を名乗り、日下村の庄屋を務めた旧家です。
長きにわたるその歴史の中で、文学に親しみ、地域の発展に貢献し、河澄家からも秀でた人物を輩出しました。
第15代当主・常之は国文学者 上田秋成 と親交があり、秋成の随筆『山霧記』にも河澄家を訪れたことが記されています。
第19代当主・雄次郎は教育に熱心で、小学校設立に私財を投じて尽力しました。その雄次郎の孫に当たる、タカは明星派の歌人「石上露子」として活躍したとの記録があります。
住宅
3棟の建物と主庭、裏庭、「日下のかや」として東大阪市の天然記念物に指定されたカヤの木を敷地内に有します。
平成21年3月に保存修理工事が完了して、平成23年5月より一般公開を行っています。
敷地中央に江戸時代初期の様式でたてられた主屋があり、西側に奥座敷「棲鶴楼」、奥手に土蔵の配置がなされ、このうち主屋と奥座敷「棲鶴楼」及び庭園を含む敷地が平成13年11月8日に東大阪市の文化財に指定されています。
主屋は桁行十二間×梁間五間半、棲鶴楼は桁行四間×梁間五間で江戸時代の姿に修復されています。主屋に残る大黒柱・庭大黒柱など数本は建築当初のまま残されている貴重な資料です。
かつての文人墨客が集い、庭を眺め、花合わせや観月の催しに興じたと記録の残る棲鶴楼は数寄屋風書院造の建物で、ここからは枯池式枯山水庭園である主庭を望むことができます。
主庭は棲『鶴』楼に対して亀石組を組んでおり「鶴亀」としており、西側に大滝、南側には小滝、南側に蓬莱山を構成した不老不死の祝儀思想に基づく作庭です。
かやの木
主庭の東隅にある常緑針葉樹の大木であるかやの木は雄雌異株であり、本樹は雌株です。
4~5月に花が咲き、秋には2~4cmの紫褐色の実がなります。
実は食用や油として利用されます。
旧河澄家の「かやの木」は幹周り約5mあり、樹齢は約500年と推定されており、昭和51年に「日下のかや」として東大阪市の天然記念物に指定されています。
立地
旧河澄家は生駒山西麓の東大阪市日下町に在ります。
江戸時代当時、山麓傾斜地にあるこの地域では、田畑の水利を谷川の乏しい水に依存するため、村内に多くの用水溜池が造られました。
溜池の維持のためには、堤の修繕、用水樋の伏替え、砂留めのための植林などに注意が必要で、工事も数多く行う必要がありました。
この時、日下村を支配した領主 曽我丹波守古祐は、御入用普請(為政者側が行う普請)で多くの普請を行い、善政を引きました。
(この曽我丹波守古祐は奉行引退後に河澄家に隠居しています。)